織田信長の生涯
尾張国勝幡城主・織田信秀の嫡男。桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、勢力を拡大。天下布武を掲げて天下統一を目指したが、本能寺の変で家臣・明智光秀に討たれた。
— 第六天魔王 —
| 名前 | 織田信長 |
|---|---|
| 本名・幼名 | 吉法師 |
| 異名 | 第六天魔王 |
| 生年 | 1534年 |
| 没年 | 1582年 |
| 出身 | 尾張(愛知県) |
| 勢力 | 織田 |
| 役職 | 天下人 |
尾張国勝幡城主・織田信秀の嫡男。桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、勢力を拡大。天下布武を掲げて天下統一を目指したが、本能寺の変で家臣・明智光秀に討たれた。
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戦国図鑑アプリを見る幼名は吉法師。幼少期は「尾張の大うつけ」と呼ばれる奇行が目立ったが、1556年に弟・信勝との家督争いを制し、尾張統一を進めた。1560年の桶狭間の戦いで今川義元を討ち、全国にその名を轟かせる。1562年に徳川家康と清洲同盟を結び、東の脅威を排除。美濃攻略に注力し、1567年に稲葉山城を攻略して「天下布武」の印を用い始めた。
1568年に足利義昭を奉じて上洛。義昭を将軍に据えるも後に対立し、1573年に追放。室町幕府を事実上終わらせた。その間、姉川の戦い、長篠の戦い、手取川の敗戦など数々の戦いを経て、畿内から中部にかけての広大な領地を支配。楽市楽座による経済政策、関所の撤廃、鉄砲の大量運用など革新的な施策を次々と打ち出した。
1582年6月2日、天下統一を目前にして、重臣・明智光秀の謀反(本能寺の変)に遭い、京都・本能寺にて49年の生涯を閉じた。遺体は発見されていない。
革新的で合理主義的な思考の持ち主。既存の権威や慣習にとらわれず、実力本位の人材登用を行った。その一方で、比叡山焼き討ちや一向一揆への苛烈な弾圧など、目的のためには手段を選ばない冷酷さも持ち合わせていた。南蛮文化への強い関心を持ち、宣教師ルイス・フロイスとも交流。相撲や鷹狩りを好み、派手好きで自ら舞を舞うこともあったという。
本能寺の変の黒幕については諸説ある。光秀単独犯行説のほか、朝廷黒幕説、秀吉黒幕説、家康黒幕説、イエズス会関与説など様々な説が提唱されているが、決定的な証拠は見つかっていない。また、遺体が発見されなかったことから、信長生存説も一部で語られる。
清洲城、小牧山城、岐阜城、安土城
1582年6月2日未明、京都・本能寺に宿泊中、明智光秀の軍勢に包囲される。「是非に及ばず」と言い放ち、弓と槍で応戦した後、奥の間に退き自害。寺には火が放たれ、遺体は発見されなかった。享年49。
1560年5月
尾張国・桶狭間
1570年4月
越前国・金ヶ崎
1570年6月
近江国・姉川
1575年5月
三河国・長篠
1570年9月〜12月
近江国・志賀
1571年9月
近江国・比叡山延暦寺
1577年10月
大和国・信貴山城
1582年6月2日
京都・本能寺
織田信長には11人の家臣が仕えました。
織田信長の家臣一覧を見る →織田信長は尾張(現在の愛知県)の出身です。
織田信長は桶狭間の戦い、金ヶ崎の退き口、姉川の戦い、長篠の戦い、志賀の陣、比叡山焼き討ち、信貴山城の戦い、本能寺の変に参戦しています。
織田信長は「第六天魔王」と呼ばれています。
1582年6月2日未明、京都・本能寺に宿泊中、明智光秀の軍勢に包囲される。「是非に及ばず」と言い放ち、弓と槍で応戦した後、奥の間に退き自害。寺には火が放たれ、遺体は発見されなかった。享年49。
「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」(敦盛の一節・愛唱)