島津義弘の生涯
島津四兄弟の次男。九州統一戦や朝鮮出兵で武名を轟かせた。特に泗川の戦いでは7千で20万の明・朝鮮連合軍を撃退。関ヶ原では「島津の退き口」で敵中突破した。
— 鬼石曼子 —
| 名前 | 島津義弘 |
|---|---|
| 本名・幼名 | 又四郎 |
| 異名 | 鬼石曼子 |
| 生年 | 1535年 |
| 没年 | 1619年 |
| 出身 | 薩摩(鹿児島県) |
| 勢力 | 島津 |
| 役職 | 武将 |
島津四兄弟の次男。九州統一戦や朝鮮出兵で武名を轟かせた。特に泗川の戦いでは7千で20万の明・朝鮮連合軍を撃退。関ヶ原では「島津の退き口」で敵中突破した。
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戦国図鑑アプリを見る島津貴久の次男。兄・義久を補佐し、九州統一戦の主力として活躍。耳川の戦い(1578年)で大友軍を壊滅させ、沖田畷の戦い(1584年)でも勝利。1587年の九州征伐では豊臣軍に抵抗するも降伏。
朝鮮出兵では泗川の戦い(1598年)で7千の兵で明・朝鮮連合軍20万を撃退し、「鬼石曼子(グイシーマンズ)」として恐れられた。
1600年の関ヶ原の戦いでは西軍に属し、敗戦後に敵中突破の退却戦(島津の退き口)を敢行。わずか80余騎で帰国した。
猛将でありながら情に厚く、家臣を大切にした。関ヶ原での撤退戦で甥・豊久が命を落としたことを深く悲しんだという。晩年は「惟新」と号し、加治木で穏やかに過ごした。
関ヶ原で西軍に属した理由については、元々東軍で参戦予定だったが伏見城入城を断られたため西軍に転じた、とする説がある。戦闘中ほとんど動かなかったのは、消極的参戦だったためとも解釈される。
内城、飫肥城(攻略)、加治木館
1619年7月21日、加治木館にて病没。享年85。戦国の猛将としては異例の大往生であった。
1578年11月
日向国・耳川
1584年3月
肥前国・沖田畷
1587年
九州全域
1592年〜1598年
朝鮮半島
1600年9月15日
美濃国・関ヶ原
島津義弘は薩摩(現在の鹿児島県)の出身です。
島津義弘は耳川の戦い、沖田畷の戦い、九州征伐、文禄・慶長の役、関ヶ原の戦いに参戦しています。
島津義弘は「鬼石曼子」と呼ばれています。
1619年7月21日、加治木館にて病没。享年85。戦国の猛将としては異例の大往生であった。
「鬼石曼子(グイシーマンズ)」(朝鮮出兵で明・朝鮮側が付けた異名。鬼のように恐ろしい島津の意)