立花宗茂の生涯
高橋紹運の実子で立花道雪の養子。秀吉から「九州一」、家康からも「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と評された。関ヶ原で改易されるも、のちに旧領を回復した唯一の大名。
— 西国無双 —
| 名前 | 立花宗茂 |
|---|---|
| 本名・幼名 | 千熊丸 |
| 異名 | 西国無双 |
| 生年 | 1567年 |
| 没年 | 1643年 |
| 出身 | 豊後(大分県) |
| 勢力 | 大友 |
| 役職 | 武将 |
高橋紹運の実子で立花道雪の養子。秀吉から「九州一」、家康からも「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と評された。関ヶ原で改易されるも、のちに旧領を回復した唯一の大名。
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戦国図鑑アプリを見る高橋紹運の長男として生まれ、立花道雪の養女・誾千代の婿養子となる。岩屋城の戦い(1586年)で父・紹運が壮絶な討死を遂げた直後、立花山城を守り切った武勇は若くして天下に轟いた。
秀吉の九州征伐後、筑後柳川13万2千石を拝領。朝鮮出兵では碧蹄館の戦い(1593年)で明軍の大軍を撃破し、秀吉から「西国無双」と称えられた。
関ヶ原では西軍に属して大津城攻略に参加。敗戦後、浪人生活を経て1620年に旧領・柳川に復帰。「関ヶ原で改易された大名で旧領に復帰した唯一の人物」として知られる。
武勇・知略・人望を兼ね備えた「西国無双」。家康も「忠義も武勇も日本一」と評したとされ、敵味方から尊敬された。養父・道雪の教えを忠実に守り、義を重んじた生き方を貫いた。浪人時代も多くの大名から招聘されたが、義理を重んじ簡単には仕えなかった。
関ヶ原で西軍に属した判断は、義を重んじたのか、政治的判断の誤りだったのか議論がある。大津城攻めに参加したため関ヶ原本戦に間に合わなかったことが、西軍の敗因の一つとされることもある。
立花山城、柳川城
1643年3月25日、江戸の柳川藩邸にて病没。享年76。戦国から泰平への時代を見届け、大往生を遂げた。
立花宗茂は豊後(現在の大分県)の出身です。
立花宗茂は九州征伐、文禄・慶長の役、関ヶ原の戦いに参戦しています。
立花宗茂は「西国無双」と呼ばれています。
1643年3月25日、江戸の柳川藩邸にて病没。享年76。戦国から泰平への時代を見届け、大往生を遂げた。
「武士たる者、己の信ずるところに従い、義を貫くべし」(伝承)